No Pain, No Gain

気がつけば不惑、それでも今日も絶賛迷走中。

どこでもドアのその先へー僕が子供に本を読み聞かせる意味

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photo by Leo Reynolds

絵本を読み聞かせるという習慣

我が家ではほぼ毎日寝る前に本を子供に読み聞かせている。(ほぼ、というのは日中に遊び疲れて風呂に入ることもままならないくらい眠たい場合以外は絵本を読んでいるという意味)

 以前このブログでも紹介した虹文庫や、長男が学校の図書館で借りてくる本や童話館のぶっくくらぶで配本される本を何度も何度も読む。長男は「僕が寝ても読み続けてね」とよく言う。安心して眠るための子守歌のような存在になのかもしれない。

 

子供達にとっての「本」の意味

子供たちが多くの本に出会うことは、本当に大切だ。なぜなら、子供達の見ている世界は、大人の見ているそれよりも遙かに狭くもあり、広くもあるからだ。

矛盾したことを言っているのだけれど、「現実の世界」という意味では子供たち自身が見聞した経験は言うまでもなく大人よりも乏しいので世界は狭いと言える。けれども、大人が現実を知ったがために失われ、子供達の果ての無い想像力が作り出す「夢の世界」はどこまでも広い。(長男がこの間「タコとキャベツの国がある」と言っていたが、大人の発想では思いつきそうで思いつかない。たこ焼き?)

その想像力をかき立て、世界を拡張していくための道具が本なのだ。そして、本を読み始めるための導入として絵本が有用なのはいうまでもない。現実のような夢のような不思議な世界の入り口があるんだよ、と子供達に絵を通して視覚で認識させてあげることができるのだから。

絵本を読み聞かせてもらうという習慣から、子供が自分自身で読むというステップが踏めたらたらいいなあ、と思うのだが、読み聞かせは読み聞かせで子供との良いスキンシップの方法でもあるので、やめられないしやめたくない。

 

我が家にとっての(日本の)絵本を読むもう一つの意味

ところで、我が家は海外で生活をしていて、子供達は二人ともインターナショナルスクールに通っている。当然学校での教育は日本で行われるようなものとは異なり、基本的には英語が母国語となる人達のための教育が中心になる。

日本の童話を意図的に教えてあげないと、子供達は「桃太郎」「金太郎」といった古典的な昔話や「ごんぎつね」のような誰もが知っている名作を知らないというようなことが起こりうる。すると、日本人にとっての「お約束」というか「お作法」というか、日本人であれば共通の理解があってしかるべき部分が欠けてしまうので、日本人として当然の所作をするための基本的な土壌がなくなってしまう懸念があるのではないかと心配している。

分かりにくい例だけど、笑点を知っている人が、知人から「座布団1枚!!」と言われれば、自分の言ったギャグが評価されたと理解出来るが、笑点を知らなければ「座布団って何のこと?」とすっとぼけたことを言ってしまう、といったところか。

そのような我が家の理由もあって、子供達には毎日でも本を読んであげたい。(日本の絵本に限定する必要はもちろんないと思う。子供が借りてくるのは英語の本なので、むしろ自分の方が「この単語なんだっけ?」と勉強になることさえあったり...)

 

まとめ

繰り返しになるけど、本は想像力を広げ、世界を広げるための道具。どこでもドアはドラえもんのび太を行きたいところに連れて行く。つまり思い描けなければ、思い描かなければ、現在立っている地平がドアの向こうに続くだけ。世界を広げてどこでもドアのその先へ大きな飛躍をするために、今日も子供達と、本を読む。

 

 

これまでの絵本シリーズ

 

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